日本人よ、「核の迷妄」から醒めよ ~真の日印友好関係は原子力協力抜きにはあり得ない

日本人よ、「核の迷妄」から醒めよ
~真の日印友好関係は原子力協力抜きにはあり得ない~
                            
   金子 熊夫

<はじめに>

 昨年12月末インドを公式訪問した野田首相は、マンモハン・シン印首相と会談し、31項目にわたる共同声明「国交樹立60周年を迎える日印の戦略的グローバル・パートナーシップ強化に向けたビジョン」を発表した。 その中でとくに注目されたのは、昨年3月11日の福島原発事故以来中断していた日印原子力協力協定の締結交渉の再開について双方で合意したことが明記されていることである。同事故以後日本国内で急激に高まった原子力発電や原発輸出(インドに限らず)に対する国内の根強い反対にもかかわらず、野田首相が敢えて交渉再開を約束した背景には、インド側の強い要請があったからである。では、なぜインドは日本との原子力協力をそれほど強く希望するのか、なぜ日本は対印原子力協力に踏み切れないのか、今後日印原子力協定交渉はどう展開していくのか。その辺を改めてじっくり考えてみたい。そこから、日本人の戦後の「核」意識と日本政府の核・原子力外交の本質が見えてくるように思われるからである。

<3.11事故の国際的影響>

 順序として、まず、東日本大震災に伴う東京電力福島第一原子力発電所の事故の話から始めよう。この事故は、日本にとってまさに未曽有の大惨事であった。それまで世界の最先端を行くと自負していた日本の原子力は、今や一転して危急存亡の瀬戸際に追い込まれている。間もなく「1周忌」を迎えようとする現在も、無残な姿を露呈した5基の原子炉は「冷温停止状態」にあるものの、炉心の実際の様子は分からず、まして事故の原因や経過は十分解明されておらず、福島県を中心に東北地方各地は放射能汚染に晒され続け、人々は塗炭の苦しみを味わわされている。この事故の影響で、全国で54基ある原子炉のうち現在(1月31日)稼働しているのは僅か3基。もし再起動がなければ4月には全基が停止するという、まさに緊急事態に立ち至っている。
 他方、当然ながら、国内の原子力に対する逆風は益々厳しさを増している。もし現時点で仮に「原発継続か脱原発か」を争点とした住民投票か国民投票が行われたとすれば、結果は全く予断できない。そして、もし、つい1年前まで国の基幹電源であった原子力を近い将来全廃することになれば、再生可能エネルギー(自然エネルギー)の見通しが全く立たず、高騰する化石燃料による火力発電に頼る以外にない中で、日本経済と国民生活は計り知れない影響を受け、その結果、激烈な国際競争の中で日本は「沈没」し、今までの平和と繁栄を維持することは難しくなるであろう。
 このような危機的状況の中で、元々反対ないし批判が強かった原子力プラント輸出を実施するのはさらに難しくなるであろう。事実、昨年12月初め、日本とベトナム、ヨルダン、ロシア、韓国との原子力協力協定案が国会で審議された際、衆参議院合わせて20名近い反対があった。反対した議員たちのほとんどは民主党や社民党などで、元々原子力そのものに反対の立場とみられるが、そうでない議員も若干含まれていた模様である。彼らの主張は、福島原発事故の原因究明も不十分な現時点において、相手がどこの国であろうと、日本製の原子力発電所の輸出を行うことは到底許されないということである。
 かくのごとく、日本国内の原発反対、原発輸出反対ムードは、このところ、かつてないほどの高まりを見せており、この傾向は今後さらに強まりこそすれ、弱まることはあるまい。民主党政権も、せっかく2年前に「新国家戦略」として原発などのインフラ輸出促進を重点政策に掲げたのに、国内世論や風評被害に押されて、すっかり及び腰になっている。

 しかし、一たび海外に目を転ずれば、福島原発事故以後も、一部のヨーロッパ諸国、とりわけチェルノブイリ事故(1986年)以後反原発的傾向が強かったドイツ、スイス、イタリアなどを除いて、はっきり脱原発に踏み切った国は今のところ現れていない。逆に、フランス、アメリカ、ロシア、イギリスなどの主要国は軒並み原子力発電重視の立場を堅持している。
アジアにおいても、中国が、そのあまりにも野心的な原発拡大計画を一時的にスローダウンする気配があるものの、韓国、台湾、インドなどの既存原発国は前向きの姿勢を崩しておらず、さらに、日本からの原発2基輸入が既に内定しているベトナムを筆頭に、インドネシア、マレーシア、フィリピンなどの東南アジア諸国や、ヨルダン、トルコ、サウジアラビア、クエートなど中東諸国でも原発導入への動きは衰えていない。こうした国々では、福島事故にもかかわらず、長年営々として実績を積み上げてきた日本の原子力技術と安全性に対する信頼は大きく揺らいでおらず、日本との協力を強く望んでいるとみられる。

<日印原子力交渉の歴史的背景:米印原子力合意>

 さて、そうした世界的潮流の中でも、世界第2の人口大国で、新興国としてBRICの一角をなすインドは、近年の目覚ましい経済発展に伴うエネルギー需要の急増に備えて、原子力発電の拡大路線を着実に進めている点が目立つ。優れた経済学者でもあるマンモハン・シン首相はそうした積極的な原子力推進グループの最先端に立って、過去10年間インドの原子力外交を自ら精力的に牽引している。
日本では21世紀の現在でも、インドというと、経済的に貧しい開発途上国で、原子力のような高度の科学技術分野では日本より遅れていると勝手に想像している人が少なくないようだが、それが大変な誤解であることは、コンピューター等ハイテク分野での括目すべき躍進ぶりを引合いに出すまでもなく、明らかである。
 とくに原子力分野について言えば、実はインドは、日本より10年以上早い時代から、すなわち第二次世界大戦終了前から原子力平和利用の研究開発に着手した歴史がある。当時大英帝国の植民地であったインドでは、エリート科学者たちは英国に留学し、一流の欧米人科学者と一緒に原子力を研究し、「マンハッタン計画」(広島、長崎原爆製造計画)にも関与した経験を持つ。彼らは戦後インドに帰り、独立(1947年)後はガンジーやネール(初代首相)の下、タタ財閥の潤沢な財政援助を得て原子力研究を本格化させた。そのトップランナーこそ、今でも「インド原子力の父」と崇められるホミ・バーバー博士で、ムンバイ近郊のトロンベイ(日本の東海村に相当)にある原子力研究所は「バーバー原子力研究センター」(BARC)と呼ばれ、インドの原子力活動のメッカとなっている。ちなみに、バーバー博士は、日本でようやく原子力基本法が制定され原子力委員会が設置された1955年に、ジュネーブで開催された第1回「国連原子力平和利用会議」の議長を務めた。その会議に日本から初めて、大した予備知識もなく出席した若き日の中曽根康弘氏らが衝撃を受け、帰国後日本の原子力平和利用の先鞭をつけたことは周知の事実である。
 その後インドは様々な紆余曲折を経て、1960年代半ばには原子平和利用、すなわち原子力発電を始めている。アジアでは最も古い原発先進国といってよい。しかし、後で詳しく述べるような歴史的事情により、途中から原子力軍事利用、すなわち核兵器開発にも手を染め、1974年に最初の核実験を行った。そして、そのため、インドは世界の原子力共同体からシャットアウトされ、孤立無援の状態で独自の原子力発電活動を続けてきたのである。そのため、歴史が古い割にインドの原子力発電規模は小さく(現在でも3%程度)、炉型(重水炉)も国際規格から外れている。そこがマンモハン・シン氏の悩みでもあった。
 ところが、インドの国際的地位と経済力の向上に伴い、対印関係改善を必要と考えた米国ブッシュ(息子)政権は、一転して対印接近政策に転じ、その流れの中で、2005年夏、インドとの原子力協力解禁に踏み切った。9.11同時多発テロ事件( 2001年)以後アフガニスタンのアルカーイダ勢力撲滅のため近隣のパキスタンやインドの力を借りる必要があったこと、インドのIT大国化やアウトソーシングの進展により米印経済関係が飛躍的に緊密になったこと、台頭する中国に対する1つの布石としてインドとの戦略関係を強化する必要が生じたこと等々の政治的、経済的、戦略的考慮がブッシュ政権の対印接近を促進したと考えられる。

<NPTとNSGのハードル>

 しかし、インドとの原子力協力を進めるに当たっては、1つの大きなハードルがあった。言うまでもなく、インドが核兵器不拡散条約(NPT)非加盟の立場を貫き、同条約の埒外で独自の核開発路線を歩み、1974年と1998年の2度にわたって核実験を行ったことがそれで、いわばインド=前科者、アウトロー、悪玉(バッドボーイ)論ともいうべき見方が国際的に定着していたことである。こうした歪んだインド観は、唯一の被爆国として、核廃絶を願い、あるいは、それを夢想し、NPTを金科玉条視する傾向のある日本人の間に特に強いと思われる。戦後のいわゆる「平和・反核」教育のせいであるが、そのことは後で別途論じよう。
 実は、1974年のインドの第1回核実験は、NPTが発効(1970年)して間もなく、核拡散防止が重要な国際政治上の課題になっていた時に起こったもので、米国はじめ西側諸国にとって確かに衝撃的な出来事であった。ポカラン砂漠でのこの核爆発実験で使われたプルトニウムは、現在もバーバー原子力研究所の一隅に鎮座する旧式の重水型原子炉「サイラス」(CIRUS)で作ったものとされるが、この炉は、1950年代末にカナダが炉を、米国が重水を供与して出来たもので――命名の由来は、C=Canada, I=India, R=Reactor, US=United Statesとされる―― それだけに米加両国の衝撃は殊の外大きかった。キッシンジャー国務長官(当時)の提唱で、原子力先進国7か国(最初のサミット参加国、日本を含む)がロンドンに集まって、インドのようなNPT非加盟国への原子力輸出を原則禁止または規制するための指針とリスト(ロンドン・ガイドライン)が1978年に合意されたのもそのためである。実は、筆者は当時外務省の初代原子力課長として、こうした外交交渉や作業に直接かかわった経験を持つ。ちなみに、このロンドン・グループはその後徐々に拡大され、現在では46カ国が加盟する「原子力供給国グループ」(NSG)となっていることは周知のとおり。これこそがNPTを陰で支える強力なお目付け役である。ただし、その存在は今でも非公式(部外秘)で、ガイドラインも一種の紳士協定とされている

 このような歴史的経緯があるので、2005年7月ブッシュ・シン会談で突然米印原子力協力合意が発表されたときは、米国内はもとより世界各国の核不拡散論者や平和運動グループから一斉に非難の声が上がった。日本でも、広島、長崎の被爆者たちや反核・平和団体を中心に米印合意反対論が湧き起ったのは言うまでもない。一部の有力マスコミがそうした反対論をことさら煽った感がある。インド国内にも、米印原子力合意によりインドの「核の主権」が制約されるとか、インド外交が米国に従属するという、民族主義的、反米主義的グループからの抵抗がかなり長く続いた。そのため、流石のシン首相も一時米印原子力合意を諦めかけたように見えた時期もあった。
しかし、ブッシュ政権とマンモハン・シン政権の辛抱強い連係プレーが功を奏し、様々な紆余曲折を経て、ついに2008年9月、ウィーンで開かれたNSGの総会で、米印原子力協定案は全会一致で承認された。その後同協定は米印両国の議会で承認され、ブッシュ政権の最終盤にようやく発効に漕ぎ着けた。2009年1月に登場したオバマ現政権も基本的に対印原子力協力には極めて前向きである。
かくして米印協定が締結されるや否や、堰を切ったようにフランス、ロシア、カナダ、韓国、中国などいくつかの国がこれに続き、いまやインドへの原子力プラント輸出競争は過熱気味で、各国が激しく鎬を削っている。

<日印原子力協定交渉開始の決断と逡巡>

 以上のような一連の状況の中で、いやでも注目されるのが唯一の被爆国・日本の対応である。インドからは、自民党政権時代、親印派(反中派)とされる森、小泉、安倍政権等に働きかけて米印原子力協力への理解と支持を求めたが、歴代政権は、国内の根強い反核感情と核廃絶ムードに配慮して、中々米印協定支持を表明できなかった。2008年9月のNSG総会の際も、もし日本政府が最後まで反対したら、全会一致を旨とするNSG決定は成らず、日印関係にも大きなダメージを齎すと危惧されたが、幸い最後の段階で、インドの外務大臣が、核実験の自主的中断(モラトリウム)と核拡散防止への協力を約束したため、それを評価した大多数のメンバーが容認に傾いたので、日本も賛成に回った。消極的賛成ではあったが、外交当局としては苦渋の決断だったようだ。 
日本政府は、しかし、NSG決定後も、国内世論を気遣って対印原子力協力には慎重な姿勢を保ってきたが、日本以外の国々が続々と対印原子力協定を結び、インドへの原発輸出商談が進むにつれ、状況が次第に変わってきた。
 若干話が細かくなるが、具体的に説明すると、例えば、フランスのアレバ社や米国のウェスチングハウス社(WH)、ジェネラル・エレクトリック社(GE)は自社製の原子炉を輸出するにしても、提携関係にある日本企業(東芝、日立、三菱重工)の技術や日本製の機器なしでは製造・建設できないのが実情だ。とくにWH社は東芝の資本傘下にあり、GEは日立と合弁関係、アレバは三菱重工と技術提携関係にある。また、特定の原子炉機器、例えば圧力容器のような大型鍛造品は日本の日本製鋼所(JSW)の製品を使わざるを得ない。ちなみに同社――主工場は北海道室蘭市にある――は、古くから鍛造技術に優れ、世界中の新設原発の圧力容器の80%以上を受注しているとされる。このため、米仏は日本企業の参加・協力を必要とし、そのためにはどうしても日印原子力協定が要る。
 こうした外国からの強い働きかけがあったこともあり、かつまた、政府としても、インドとの貿易、投資上の重要性の増大、安全保障面(インド洋でのシーレイン防衛など)での協力の必要性、対中国、対アジア外交での連携強化等々の諸要因を勘案し、2010年6月、菅内閣の発足直後、岡田外務大臣の判断で、日印原子力協定交渉の開始に踏み切った。交渉は同年中に両国の首都で3回行われた。ちなみに、日本と各国との原子力協定交渉は、筆者の現役時代より前から、外務省の軍縮・不拡散・科学担当部局が主管しているが、日印交渉だけは政務局であるアジア太平洋局南部アジア部が主管するようになっている。これも岡田外相の英断である。

 ところが、順調に進捗しているかに見えた日印交渉は、同年8月末訪印した岡田大臣が記者会見で「もしインドが核実験を再開した場合は、日本の対印協力はストップせざるを得ない」と発言し、この趣旨を協定に盛り込みたいと述べたことから、インド側が態度を硬化し、俄かに交渉が難航しはじめた。岡田氏は2008年9月のNSG会合で表明した日本政府の基本的立場を踏まえたもので本来何ら新味はないはずだが、これを記者会見で言ったために、インド側が大きく報道し、騒ぎが大きくなった面がある。岡田氏としては主に日本国内向けに発言したつもりなのだろうが、インド側にとっては最もセンシティヴな点だ。その後3.11大震災があり、以後交渉は事実上中断したままとなっていたわけである。

 今回の野田総理の訪印で、外交交渉再開が合意され、双方が交渉の早期妥結への意欲を再確認したので、今後何らかの進展があるものと期待されるが、交渉の過程で浮かび上がってきた問題点の中には容易な妥協を許さぬものも少なくない。
とくに岡田元外相が提起した上記の問題点については、インド自身が2008年9月のNSG会合の直前に明らかにした「約束と行動」の中でも核実験の自粛(モラトリアム)をはっきり約束しているので実質的には問題ないはずだが、そのことを協定の中で義務づけられることはインド側としても承服しがたいところでだろう。米印協定でも、そこまではっきり書かれていない。米側交渉団は随分頑張ったらしいが、インド側が最後まで下りなかった。蓋し核実験をするかしないかは、当該国の国家安全保障上の最重要事項であり、主権にかかわる問題であるから、他国の容喙は一切認めないということであろう。まさに日印双方の独立国としての基本的理念の正面衝突である。

 しかし、だからと言って、この問題が全く解決不可能な問題点とも思われない。いささか外交交渉の経験を有する者として、これらの難題も、双方の交渉担当者の創意と協調精神によって必ずや早晩解決されるものと期待している。これ以上の具体的な内容については現時点では公に言うべきではあるまい。特に関心を持たれる向きは、筆者のこれまでに発表した諸論文を精読されれば大方賢察できるのではないかと思う。

<核に関する日印のスタンスのあまりにも大きい違い>

 再び日印間の基本的な問題に立ち戻って、今少し論を進めてみよう。繰り返し言うが、そもそも、原子力協定交渉が難航する最大の理由は、核問題に関する両国の基本的態度に大きな隔たりがあるからである。唯一の被爆国として日本人が核兵器を憎み、核廃絶を願い、自らも「非核三原則」で核放棄を宣言し、核兵器不拡散条約(NPT)に率先して加盟しているのに対し、インドは、NPTに当初から加盟せず、独自の核武装を進め、2度の核実験を行なったことから分かるように、核戦力は自国の安全保障上必要不可欠という立場を一貫して堅持している。
 しからば、インドは核兵器を信奉する好戦的な国、非平和愛好国であるかというと、さにあらず。国連で最も古くから核廃絶を唱えてきたのは実は、ガンジーの非暴力・平和主義を国是として建国されたインドである。1950年代ネール首相は国連総会でしばしば熱烈な核廃絶演説を行なっている。筆者が少年だったころ、そうしたインドを敬愛の念を持って見つめたものだ。比較的最近まで、インド議会では8月6日の広島デーには全議員が黙禱をささげるのが慣習であったとも聞く。
 そのインドがある時点から自ら核武装の道を選択したのは、1960年代初めの中国との2度の国境紛争で2度とも惨敗を喫したこと、その中国が1964年10月に核実験に成功したこと、そして、その中国がNPT(1970年発効)では、米ソ英仏と並んで「核兵器国」としての特権的地位を与えられ、どんなに核兵器を製造してもお咎め無し、国際原子力機関による核査察(保証措置)も受けないという、極めて差別的かつ不公平な国際レジームが出来上がってしまったからである。
 ゆえに、インドは自国の安全保障を自らの手で確保するため、核武装の道を選択せざるを得なかった。それ故に、NPTには一貫して背を向けており、今後もこの不公平性が是正されない限り(その可能性は現実にはゼロだ)、同条約に加盟することは永久にありえないだろう。日本のマスコミや学者・評論家は深く考えずにインドをNPT「未加盟国」と呼んでいるが、「非加盟国」と言うべきだと思う。他の欧米諸国ならともかく、同じアジアの国で、歴史や文明の古さと偉大さにおいて中国に引けをとらない大国と自負するインドにとって、中国だけが格段に優遇されるNPT体制ほど腹立たしいものはないというのが本音であろう。もし同じような状況に置かれていたならば、唯一の被爆国の日本でさえ、NPT非加盟の道を選んだのではないだろうか。実際には、日本は1960年代末、佐藤政権の時、中国の核の脅威の中で自主核武装の道もあったにもかかわらず、敢えてそれを封印し、他方で、偶々同時期に進められた沖縄返還交渉の過程で出てきた「核抜き本土並み」との絡みで、自ら非核化(非核三原則)を宣言し、その代わり日米安保体制の下、米国の拡大抑止力(extended deterrence)、すなわち「核の傘」によって自らの安全保障を確保する道を選んだ。そして、その上で、ほぼ同じ立場の西ドイツの動向も見極めながら、いわば断腸の思いで、この不平等かつ理不尽極まりないNPT加盟に踏み切ったのである。それは決して今日一般に考えられているような非武装・平和主義的な理想論や被爆国としての反核感情から自然に出た決断ではなく、戦略的に考えに考え抜いた上での、苦渋に満ちた選択の結果であった。私事ながら筆者は当時、1960年代前半は外務省条約局で、後半は国連局で、NPT交渉と署名問題を担当していたので、この辺の経緯はよく記憶している。最近マスコミを騒がせた佐藤政権時代のいわゆる「核密約」問題も、こうした厳しい時代背景を抜きにしては到底理解できないことを悟るべきである。

<日本人の核の呪縛と迷妄>

 このように「核」に対する日印の基本的立場と認識の違いは極めて大きいのであるが、この違いに一般日本人はいささか鈍感すぎるのではないか。日本人が自らの悲惨な原爆体験に基づく非核政策に固執し、戦後60有余年熱心に非核主義を唱導するのは良しとして、それが、全く異なった地政学的環境にあるインド人にもすんなり理解されると考え、彼らに日本と同様なスタンスをとることを当然のように求めるのはいかがなものか。インド人をして率直に言わしむれば、それ自体日本人のエゴイズム、日本人の妄想に他ならないということになろう。
 さらに言えば、日本はしかも、自ら核兵器を持たず、NPT体制の優等生を自認しているが、他方で、同盟国・米国の「核の傘」に依存する安全保障政策をとっている。これもまた日本の苦渋の選択の結果であって、当時の、そしてそれ以後の歴代政権が一貫して堅持してきた外交政策・安全保障戦略であるはずである。
 対するインドは、米ソ冷戦時代を通じて、どの国の「核の傘」にも依存せず自力で安全保障を確保しようとしてきた。そのために核兵器はインドの国防上不可欠であると判断し、従ってNPT非加盟の道を断固として選択したのである。インドにとって、隣国パキスタンとのカシミール領有権紛争、その背後でパキスタンを支援する中国との対立抗争の厳しい体験は、日本人にとっての敗戦や被爆体験と同じ重さがあるのではないか。
 このようなインドに対し、日本と同様にNPTに加盟せよとか、核兵器を放棄せよ、核実験を止めよと要求するのは全く筋違いではないか。インド人はあからさまにこのことを言わないが、心の中で感じているはずだ。たとえば、1998年の核実験の時も、広島、長崎から被爆者を含む多数の市民が大挙して訪印し、抗議したが、冒頭先方から「米国の核の傘で守られて安全地帯にいる日本人に我々インド人を非難する資格があるのでしょうか」と反問され、返す言葉がなかったということを、責任ある立場の人から直接聞いたことがある。高齢の被爆者や一般市民に国際政治や安全保障問題についての不勉強を責めるつもりは毛頭ないが、せめて広島や長崎の指導者や大学教授、知識人などは、こうした国際政治上の背景を日頃からしっかり説明しておくべきだったのではないか。さらに言えば、こうした「不都合な真実」にはなるべく触れず、非現実的な観念論で日本の非核政策や核軍縮政策を一般市民に説いてきた外務省を中心とする日本政府自身の知的怠慢ないしポピュリスト的態度こそ責められるべきであろう。
 日本人は、同じアジア人として、しかも明治以来、特に日露戦争以後100余年間にわたって親密な関係を育んできた友邦国として、もっとインドに対して理解ある態度をとるべきではないか。日本人が有難がるNPTは実に矛盾だらけで、所詮、20世紀の国際政治の産物の1つに過ぎない。これに加盟するか否かは、すべからく個々の国が「自国の至高の利益」(NPT第10条第1項)に照らして判断すべきもので、他国がとやかく言うべき筋合いのものではあるまい。北朝鮮のようにNPTに加盟したり勝手に脱退したりするいい加減な国や、イランのように加盟していても条約上の義務の履行について疑義を持たれる国もある(イラン問題はそれ自体甚だ複雑なので別の機会に譲る)。
 NPTとは所詮その程度のものである。従って、これに加盟しているか否かを判断基準として日印原子力協力の是非を云々するのは、単に早計というより、あまりにもナイーヴ、あまりにも教条的、原理主義的と言わざるを得ない。
 40余年前に永田町のタカ派諸侯を説得して回り、日本のNPT署名のために奔走した身として、今になってNPTの悪口を言うつもりはないが、当時の実情をすっかり忘却した不勉強な学者、評論家やジャーナリストたちが、訳知り顔に核問題を語り、「日印原子力協力はNPT崩壊に繋がるから不可だ」などという、幼児的発言を繰り返すのを見るに堪えないから、この際敢えて苦言を呈した次第だ。願わくば、一人の愛国的外交官OBとしての最後の警世の言として心に留めておいてもらいたい。

<補足:インドの原子力開発の現状と展望>

 ここで本稿を閉じようと思ったが、折角の機会なので、おまけとして、インドの原子力開発の現状と、将来の日印原子力協力関係の展望について、読者のご参考までに、少々書いておきたい。
 先に述べたように、インドは、NPT非加盟であるがゆえに、また、2度にわたって核実験を行ったために、長年国際的制裁措置の対象となり、ごく最近まで外国から原子炉や核燃料を輸入することができなかった。(とりわけ日本の対印制裁は厳しく、原子力分野の協力関係は事実上ゼロであった。)
そのため、インドは制裁措置を科される前の1960年代にカナダから輸入した小型の研究炉(重水は米国製)をベースに独自に開発した加圧式重水炉(PHWR)で原子力発電を行なってきた。このタイプの炉は、日本など大多数の国で現在稼働している軽水炉(LWR)と異なり、天然ウランをそのまま(濃縮せずに)燃やせるという利点はあるものの、いかんせん電気出力が小さく、1基平均20万キロワット程度。日本の最新型軽水炉が1基で130万キロ前後であるのと比較してあまりにも小型である。
 現在このタイプの国産炉を主体に全国で17基が稼働中だが、合計出力(設備容量)は400万キロワット未満。これでは、急増するインドの電力需要を賄うことは到底できない。(ただ、最近稼働し始めたタラプール原発の最新鋭PHWRは50万キロワット、将来的には70万キロワットにスケールアップする計画がある。)
 しかも、インドには天然ウランの埋蔵量が比較的少なく、既存の国産炉だけでも不足気味なので、今後は海外からウラン燃料付きで、性能の良い大型の原子炉(軽水炉)を購入する必要がある。インドが欧米諸国や日本との原子力協力に積極的なのは、まさにこのためだ。今後は、新型国産炉(重水炉)の新増設と平行して、大型の軽水炉を先進諸国からできるだけ輸入する計画であり、すでに具体的な商談が進んでいる(ロシア製の大型軽水炉はすでにインド最南端のクダンクラムに建設中で完成目前)。インド政府としては、2020年までに2000万キロワット、2032年までに 6300万キロワットに拡大し、2050年には全電力の25%を原子力で賄う計画と聞いている。
 ちなみに、3.11以前の日本の原子力発電の設備容量は約5000万キロワット、全発電電力量の約30%で、世界第3位(第1位は米国)。第2位のフランスは約6600万キロワット。ということは、インドは今から20年後に現在のフランスとほぼ同じ規模に達する計画ということになる。


(ここに、ボパール事故と原子力損害賠償責任問題に関する1節が挿入)


 インドの原子力活動について、もう1つ重要なことを指摘しておくと、前述の通り、インドは世界で最も早くから原子力平和利用に着手した国の1つであるが、ネール首相の援護と、初代インド原子力委員長、ホミ・バーバー博士の優れた指導力の下で確立した独自の原子力開発路線を一貫して踏襲している。それは「3段階計画」と称するもので、先ずウラン燃料サイクル(重水炉、軽水炉)、次にプルトニウム・サイクル(高速増殖炉)、その次にトリウム・サイクル(同)という順序で開発を進めている。インドにはウラン資源は比較的少量だが、トリウム資源が世界で最も豊富に賦存するからである。
現在、チェンナイ(旧マドラス)の南方約50キロのカルパッカムにあるインディラ・ガンジー原子力研究センター(IGCAR)では高速増殖炉実験炉(FBTR)が稼働中。さらに、その次の高速増殖炉原型炉(PFBR)も建設しており、すでに工事はほぼ完了し、試験運転を開始している。筆者は、3年前に、自ら主宰するエネルギー戦略研究会(通称EEE会議)の同僚たちで編成する「インド原子力事情調査団」の団長として、インド各地の原子力施設を視察して回ったが、その際に、カルパッカムの研究活動もつぶさに見学した。近くこれら一連の炉や施設が完成し稼働すれば、インドの原子力はまさに世界の最先端を行くことになるとの確信を深めた。ムンバイでもカルパッカムでも、バーバー博士の遺風が感じられる恵まれた知的環境の中で、誇りと自信を持って研究活動に専念している姿を見て、羨ましさを禁じ得なかった。
 それに引きかえ、日本の高速増殖炉原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)は1995年のナトリウム漏れ事故の後遺症から17年ぶりに立ち直る過程で、目下悪戦苦闘中であるが、3.11の衝撃はあまりにも大きく、前途は甚だ暗い。こうしたことから見て、日本はむしろインドから学ぶものが少なくなく、日印原子力協力が実現すれば双方にとってプラスが期待できると思う。(勿論、日本が脱原発を決めてしまえば話は全く別だが。)
 しかるに現状では、日印原子力協定不存在のために、学者同士の交流もほとんど進んでいない。日印原子力協力はインドの核武装を助長するだけで日本の非核原則に反するという誤った政策判断の悲しむべき結果である。

<結び:真の日印友好関係促進のために>

 以上述べたように、大震災で瀕死の状態にある日本の原子力とは対照的に、インドは刮目すべきスピードで原子力平和利用活動を展開しており、仏、露、米国などとの原子力協力関係も着実に進展しつつあるが、その中で、独り日本だけが「蚊屋の外」にとどまったままである現実はいかにも不自然で、残念と言わねばならない。しかも、それが日本人と日本政府が冷静にかつ徹底的に検討した結果であるならばともかく、実はそうではないと筆者には思われる。日印原子力問題が日本では一度も全国民的な議論の対象となったことはないからだ。ごく少数の自称専門家やジャーナリスト、反核アクティビストたちの声高な反対論のみが横行している。
 唯一の被爆国として一般的日本人が純粋な気持ちで核廃絶を願い、自ら非核の道を選び、NPT体制を後生大事に固守するなら、それも確かに1つの行き方かもしれないが、それで実際に得られるものは、極論すれば自己満足以上のものではないのではないか。
 端的に言って、5カ国の核兵器保有を永久に公認するNPT体制をいくら堅持しても、グルーバルな核廃絶はおろか、有効な核軍縮すら達成できない。NPTは、昔から筆者らが口を酸っぱくして言ってきたように、「核兵器国不拡散条約」、つまり5カ国以外の国に核を持たせないための条約に過ぎないからだ。
 逆に言えば、日本がインドとの原子力協力を行なっても、それだけで直ちにNPT体制が崩壊するとか、核拡散が拡大するなどというのは全くの詭弁であり、日本の平和国家のイメージに傷がつくというのもナンセンス、取るに足らぬ俗論である。むしろ、今までもNPT非加盟ながら、おそらくどの加盟国にも劣らない慎重さで核拡散防止に努めてきたインドを、早く村八分状態から解放し、新しい国際的協力体制(NPT体制を超えるもの)作りの共同作業の中に引き入れて、真の核不拡散・核軍縮・核廃絶実現のために、そしてアジアの平和と安全保障のために、共に努力することこそ、日本のとるべき道であろう。

 そうした意味において、今、日印原子力協力に日本人が踏み切れるかどうかは、今後の日印関係、ひいてはアジアにおける日本外交のあり方にも重大な関わりを持つものと言えよう。すなわち、明治以来の緊密な2国間関係の歴史の上に、21世紀を見通した、真に双方にとって有益な協力関係――それを「日印戦略的グローバル・パートナーシップ」と呼ぶ――を構築することこそ、我々に課せられた責務である。
 未曽有の大震災で周章狼狽し、低レベルの政争に明け暮れる政治家諸侯も、全国の一般国民もここのところを良く良く考えてもらいたいものだ。この問題は、少数の原子力専門家やプロ化した反核・平和運動家たちだけの議論に任せておくにはあまりにも重要であるからである。日本政府、特に日本外務省の主流は、日印原子力協力は決してビジネス的観点からではなく、まして第3国のためでもなく、日本自身の国益に合致するものであり、できるだけ早期に協定交渉を妥結させたいと願っているはずだが、悲しいかな、永田町の一部の不勉強な政治家と、全国に散在する確信犯的な反核運動家や、これを後ろで扇動する一部のマスコミの執拗な攻撃を恐れて、最後の一歩を踏みきれないでいる。この不本意な現状を、良識ある、そして勇気ある一般日本人の力によって是非打破してもらいたいものだ。そのためには、いささか込み入った核外交・NPT問題などもしっかり勉強してもらいたいと切望している。

 なお、インドのエネルギー・原子力事情や具体的な日印原子力協力の進め方等について関心のある方は、筆者が過去30年間に発表した多数の論文を是非お読みいただきたい。それらの一部は筆者のHP(http://www.eeecom.org/)にも掲載されている。

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かねこ くまお 
外交評論家、エネルギー戦略研究会会長。元キャリア外交官(初代外務省原子力課長)、元東海大学教授。ハーバード大学法科大学院卒。著書は「日本の核・アジアの核」(朝日新聞社1997年)、「地球環境問題の誕生の歴史過程」(1998年 岩波講座「地球環境学」第10巻)など。 愛知県出身、75歳。